これでレッドスターがわかる??
蒼皇氏の赤軍将官紹介

 

 

 


 

ミハイル・カリーニン

スターリン期のソ連の国家元首、ソ連最高会議幹部会議長(象徴的で権力なし)

革命前からの革命家(オールド・ボリシェヴィキ)の数少ない生き残り

革命家に珍しく農民出身。大粛清時には裁判に介入し無実の民を救うこともしばしば。

党の長老

ヴァチェスラフ・モロトフ

スターリンの片腕として活躍した人物

首相職である人民委員会議議長や外務人民委員を歴任

WW2直前から外務人民委員としてモロトフ外交を展開。長剣的にはモロトフのパン籠

スターリン死後、フルシチョフと対立し失脚するもスターリン支持を生涯貫いた

アナスタスミコヤン

スターリン時代・フルシチョフ時代双方を生き延びた稀有な人物

スターリン時代は外国貿易・国内商業人民委員、戦後は副首相職ソ連閣僚会議副議長としてスターリンを補佐。別名「赤い商人」

ラーザリ・カガノ―ヴィチ

スターリン側近の一人

早い段階からスターリンに忠誠をつくし運輸人民委員や重工業人民委員などを歴任

フルシチョフの直属の上司として彼をひきあげた人物でもある

冷酷無比さから別名「鉄のラーザリ」と言われた。

スターリン死後、そのフルシチョフとの政争に敗れ失脚

アンドレイ・ジダーノフ

スターリンの側近の一人。レニングラードの党書記。文化・芸術面からスターリン体制の一翼を担った・戦時中はレニングラード攻防戦を指揮し防衛に成功。

一次はスターリンの有力後継者と目されるも1948年に急死。

ゲオルギー・マレンコフ

スターリンの側近の一人。

スターリン死後直後に後継者としてソ連の最高指導者になるもフルシチョフに敗れ失脚

ソ連ハゲフサの法則を乱す人物だが、影が薄すぎて記憶されていない。

フェリックス・ジェルジンスキー

ポーランド貴族出身の革命家。

反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)初代議長。ソ連秘密警察の父

ヘタしたらレーニンよりも恐れられた人物。

別名「鉄のフェリックス」「革命の剣」等々

ちなみに私の好きな歴史上の人物ポーランドのピウスツキ元帥とは少年時代同じ学校の下級生・上級生としての知り合い。

ヴァチェスラフ・メンジンスキー

ジェルジンスキー死後のソ連秘密警察のトップ、統合国家政治局OGPU長官

語学力が高く16ヶ国語を話せた。1934年に狭心症により死去するがその死は

メンジンスキーの後をついだヤゴーダによる毒殺説もある。

ゲンリフ・ヤーゴダ

ソ連秘密警察3代目のトップ初代内務人民委員部(NKVD)長官

大粛清の最初期を指揮するもその執行が「生ぬるい」としてスターリンの忌避を買い

長官職を解任される。直後に逮捕、「尋問」の結果ドイツのスパイであることを「自白」して処刑された。賭博癖・漁色家と人間性はよくない。

ニコライ・エジョフ

ヤゴーダの後を継ぎ内務人民委員になった秘密警察の四代目長官

「無実の人間を10人犠牲にしてでも1人のスパイを逃してはならない」という信念で大粛清の大部分を指揮した別名「血まみれの小人」。大粛清は別名エジョフチナ(エジョフ体制)とも。大粛清の行き過ぎで国家機能に支障が出始めたことでスターリンの不興を買い、失脚。自身も逮捕➡「尋問」➡スパイであることを「自白」➡処刑という自身が確立した流れで粛清された。死刑判決の際泣きじゃくり気絶したといわれている。

 

ラヴレンチー・ベリヤ

第5代ソ連秘密警察トップ。

エジョフ後の大粛清末期を指揮。スターリンの片腕として活躍。

スターリン死後はマレンコフについて党NO2の実力者となるもフルシチョフとの権力闘争に敗れ、エジョフと同様の流れで粛清。最期は泣きじゃくりながら命乞いをしたと伝わる。

人間性は幼女志向サディスト、粛清後自宅地下室から複数の女性の遺骨発見等々

はっきり言ってネタにできないレベルで酷い人物。

 

 

軍人

クリメント・ヴォロシーロフ

スターリンの側近。最初のソ連邦元帥5人の1人

国防人民委員などを歴任。本格的軍務経験がほとんどなく軍事的才能は低い

しかしスターリンとの近さから政治将軍と他の軍人とは対立。大粛清にも関与

スターリン死後フルシチョフと対立するも途中で寝がえり影響力を保つ。

ミハイル・トゥハチェフスキー

最初のソ連邦元帥5人の1人

革命後の内戦期から活躍し「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」と呼ばれた英雄

前線指揮官としてだけでなく軍事理論でもその才能は発揮され彼の考案した「縦深戦術理論」はソ連軍の基本ドクトリンとして多大な影響を残す。大粛清により処刑された。

セミョーン・ブジョーンヌイ

最初のソ連邦元帥5人の1人

革命後の内戦で第1騎兵軍を指揮し赤軍で最も活躍した指揮官。

しかし内戦後は騎兵を重視し赤軍の機械化・戦車戦力の充実に反対。大祖国防衛戦争でも実戦指揮では醜態をさらす等戦争の進歩についていけなかった。ただし騎兵閥のトップとしてジューコフなどを大粛清期に庇護したなど評価されるべき点もある。

三國志でならばその騎兵指揮力の高さは十分活躍できると思われる。

ヴァシーリ・ブリュヘル

最初のソ連邦元帥5人の1人

第一次国共合作時の主席軍事顧問・東アジアに展開するソ連軍「赤旗特別極東軍」司令官など極東方面で活躍した、赤旗勲章・赤星勲章を史上初めて受章した名将。しかし大粛清後半に逮捕、苛烈な拷問を受けながらも自白強要を拒否し拷問での負傷が原因で死亡。

アレサンドル・エゴロフ

最初のソ連邦元帥5人の1人

なのだが、私的に一番影の薄い人物。

赤軍参謀総長・国防人民委員代理など軍要職を歴任

大粛清もスターリンとの繋がりの古さから無縁かと思われていたが大粛清末期に逮捕・処刑された。

 

グリゴリー・クリーク

ソ連邦元帥 砲兵総監

対ポーランド戦や冬戦争で砲兵指揮をとるも無能と軍内では評価。しかしスターリンとの繋がりの深さからソ連邦元帥へ昇格。

赤軍の近代化・機械化への最強硬反対派(有名どこではT-34開発否定派)

独ソ戦序盤でレニングラード戦線を担当するも包囲される結果となり少将へ降格

この後中将へ再昇格するも戦後に粛清

ボリス・シャポシニコフ

赤軍大粛清によりトハチェフスキーが粛清された後の赤軍参謀総長 ソ連邦元帥

その有能さと何より職業軍人意識の高さから政治から距離をとっていたことからスターリンの信任を得た(彼の著書「軍の頭脳」をスターリンは愛読していた+全軍人の必読書へ)

大粛清で弱体化した赤軍にとっても軍政・軍令双方に優れた新参謀総長の就任は幸運であった。彼のもと赤軍は再び強大な軍へと回復した。1942年に病気で辞任、ドイツ降伏直前に死去する

セミョーン・チモシェンコ ソ連邦元帥

冬戦争においてフィンランド軍防衛線「マンネルハイム線」攻撃を指揮、突破に成功する

この功績からソ連邦元帥に昇格、独ソ戦開戦までは国防人民委員(国防相)赤軍改革を推進

開戦後は各戦線司令官を歴任。ソ連軍総司令部議長として戦線間の行動調整を行い大攻勢を後方から支援した。

 

ゲオルギー・ジューコフ ソ連邦元帥

一般知名度の高さでは赤軍屈指の名将

戦前は騎兵部隊司令官を歴任するも同時に軍の機械化の推進者でもあった

1939年のノモンハン事件を指揮し日本軍を撃退

独ソ戦開戦後はレニングラード攻防戦序盤におけるドイツ軍攻勢を押止めることの成功を皮切りにモスクワ攻防戦の際のシベリア極東方面軍の師団転用 1942年最高司令官代理に就任 スターリングラード攻防戦における独第6軍包囲作戦「天王星」立案

バグラチオン作戦における全戦線を統括的に指揮し独中央軍集団を崩壊させる等全段階において活躍。ベルリン侵攻時には前線司令官としてこれを達成した

大兵力を展開・投入した作戦を確実に実行する作戦能力とその過程の兵力の消耗を無慈悲に行い続けられる胆力はソ連軍以外では機能しないかもしれないが、逆にソ連軍を運用する上では最強の将軍

 

アレクサンドル・ヴァシレフスキー ソ連邦元帥

シャポシニコフの麾下から彼の後任の赤軍参謀総長となった軍人

独ソ戦においてジューコフとコンビを組んでモスクワ・スターリングラード等の攻防戦

クルスク攻勢への防衛・バグラチオン作戦の立案実行を行った名参謀総長

ドイツ降伏後、対日戦では極東ソ連軍総司令官に就任し満州侵攻を指揮した

イワン・コーネフ ソ連邦元帥

ジューコフとベルリン一番乗りを競った名将

ノモンハンの際は第2赤旗極東軍司令として戦争拡大に備えていた

独ソ戦では各地の戦線司令官を歴任。クルスクの戦いではステップ戦線司令官として独攻勢を撃退、ヴィスワ・オーデル攻勢・ベルリン攻防戦等後半の攻勢時での活躍が目立つ名将

戦後は地上軍総司令官やワルシャワ条約機構統合軍総司令官などを歴任

コンスタンチン・ロコソフスキー ソ連邦元帥

ポーランド出身。戦前から機械化軍団長などに就き諸兵科の統合運用に長けていた

大粛清期に逮捕されるも才能を惜しんだジューコフの嘆願により粛清を免れている

独ソ戦でも序盤は機械化軍団長として、スターリングラード攻防戦ではドン戦線司令官として「天王星」における独第6軍の包囲を実行しこれに成功する

バグラチオン作戦ではミンスクの解放に成功している。個人的には猛将というより智将

戦後は衛星国となったポーランドの国防相を駐留軍総司令官職と兼任するがロシア人からはポーランド人、ポーランド人からはロシア人としてみられる辛い立場となった

 

ニコライ・ヴァトゥーチン 上級大将

機甲戦力を利用した敵戦線の突破・包囲撃滅を得意とした攻勢能力の高い名将

スターリングラード攻防戦時、南西戦線司令官として第6軍包囲の包囲に成功

主にヴォロネジ戦線を指揮しクルスク戦での独軍攻勢の撃退・キエフの解放・コルスン包囲戦で活躍した。しかし1944年、前線視察中にウクライナ蜂起軍の狙撃で致命傷を負い、キエフで死去

アンドレイ・ヴラソフ 中将

冬戦争時、大粛清の影響で軍全体の質の低下が著しいなか彼の率いた第99狙撃兵師団は精鋭部隊へと成長した。独ソ戦開戦時は第37軍司令官。ドニエプル戦線やモスクワ攻防戦での活躍からレーニン勲章を授与された。しかし1942年、レニングラード救援作戦で彼の部隊は補給不足から包囲され彼も捕虜となる。そしてスターリンへの不信感からドイツに協力。ロシア解放軍を組織、その総司令官に就任した。

終戦後ドイツ国内でアメリカ軍に投降するも西側への亡命要請は却下され、彼とその兵士は全員ソ連へ送還。全員絞首刑となった。

ちなみにロシア解放軍の兵士たちはソ連崩壊後に名誉回復を許されたが、ヴラソフは許されなかった。

 

ヴァシーリ・チュイコフ ソ連邦元帥

スターリングラードの英雄

戦前は主に極東軍にて勤務。日中戦争開戦直後、駐中国軍事顧問の一人として対日戦に関与

ポーランド侵攻や冬戦争にも軍司令官として従軍している

独ソ戦開戦後、対独戦に従軍。そしてスターリングラード攻防戦において初めは第1予備軍、終わりには第62軍司令官としてこの史上最大の市街地戦を戦いぬき世界中にその名を知らしめた。彼がこの時考案した市街戦における攻撃ノウハウは特殊部隊の戦術の雛形として今なお世界中に影響を残している

62軍は第8親衛軍に改称後も各戦線に参加、ベルリン攻防戦にも参戦している。

蛇足だがヒトラーの自殺後クレープス大将が軍使として停戦の申し入れをしたのは彼である(映画「ヒトラー 最後の12日間」

戦後は地上軍総司令官等を歴任した

死後彼の遺体はソ連邦元帥が通常モスクワ赤の広場に埋葬されるところを特例としてスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のママエフ・クルガンに埋葬された。今もヴァシリ・ザイツェフら共に戦った戦友たちと共にそこに眠っている

 

パーヴェル・ロトミストロフ 装甲戦車兵総元帥

戦車戦の名将として知られる軍人

独ソ戦開戦時は第3機械化軍団参謀長

以後も機械化部隊の司令官や参謀長職を歴任しスターリングラード攻防戦等に参加した

1943年第5親衛戦車軍司令官に任命され、史上最大の戦車戦プロホロフカの戦いのソ連側主力となった。第5親衛戦車軍は戦車の質的に劣り多大な損害を出しながらもドイツ軍の攻勢を頓挫させることに成功した

 

 

 

ミハイル・カトゥコフ 装甲戦車兵大将

ロトミストロフと並ぶソ連戦車戦の名将

彼も史上最大の戦車戦プロホロフカの戦いの際に第1戦車軍の司令として参戦していた

グリゴリー・シュテルン 大将

戦間期・冬戦争などで活躍した軍人

スペイン内戦での人民戦線側主席軍事顧問、張鼓峰事件時は極東軍参謀長として指揮

ノモンハンでも軍集団司令としてジューコフと共に日本軍撃破に活躍した(この時点での知名度はジューコフ以上)

しかし独ソ戦直前の防空局長時代に独輸送機の領空侵犯を阻止できず責任を追及され粛清

スタニスラフ・ポプラウスキ― 上級大将

独ソ戦序盤では各戦線で師団長などを歴任

1944年にポーランド人民政府(ソ連傀儡)の要請でポーランド軍に派遣

ポーランド第1・第2軍を指揮、独オーデル川防衛線を突破しベルリン攻防戦でも活躍した

 

キリル・メレツコフ ソ連邦元帥

チモシェンコ麾下の将軍

冬戦争では第7軍司令官としてマンネルハイム線突破に成功

シャポシニコフの辞任後に短期間ながら赤軍参謀総長に就く

独ソ戦開戦後は第7独立軍司令官として継続戦争となったフィンランド軍と激戦を繰り広げる。大戦果をあげることはできなかったが、最終的に彼の指揮のもと攻勢をかけた赤軍にフィンランドは停戦協定を結んだ。

アンドレイ・イェレーメンコ ソ連邦元帥

戦前から機械化軍団長や軍管区司令官を歴任

独ソ戦では各戦線司令官として前線指揮を行った。戦時中幾度も前線で重傷の負傷を負っても療養後再び戦線司令官として前線に戻った。独立沿海軍司令時のクリミア解放・第4ウクライナ戦線司令官のチェコスロバキア進撃などで活躍

 

フョードル・トルブーヒン ソ連邦元帥

独ソ戦初期は南部の各戦線の参謀長職を歴任

スターリングラード攻防戦時にはスターリングラード軍管区副司令官や第57軍司令官として活躍、攻防戦後も各戦線司令官としてハンガリーやルーマニアへの侵攻作戦に参加し活躍した

 

アファナシ―・ベロボロドフ 上級大将

独ソ戦においては師団長や軍団長として各地で奮戦

対日戦において極東第1戦線第1軍を指揮し関東軍を撃破した

アレクセイ・ヴィノグラドフ 准将

44機械化師団長としてポーランド侵攻に従軍

冬戦争開戦後はフィンランド戦線に投入されるがラーッテ林道の戦いにおいて数に劣るフィンランド軍に包囲され、総兵力25000人中17500人が失われる大敗となってしまう

自身は辛くも撤退に成功するもベリヤ率いるNKVDによって敗戦責任を問われ銃殺刑

ヴァシーリ・ヴォリスキー 装甲戦車兵大将

戦前より機械化部隊の運用に携わり独ソ戦開戦後も機械化軍団司令官職などを歴任しスターリングラード攻防戦などで活躍、戦争末期にはロトミストロフの後任として第5親衛戦車軍司令官としてバルト三国解放作戦や東プロイセン侵攻作戦で活躍した

 

ドミトリー・パヴロフ 上級大将

戦前はスペイン内戦では共和国軍戦車旅団長、帰国後は労農赤軍自動車戦車局長など赤軍の機械化・戦車兵力の充実といった改革の推進者であった

独ソ戦開戦時は対独国境の正面470kmを担当する西部戦線司令官であった。しかし西部戦線軍はバルバロッサ作戦において最大規模の猛攻をうけ42万もの損害を17日間で出す事態となってしまう。この敗戦の責任としてパヴロフと戦線参謀長らは逮捕され反逆罪の罪で銃殺刑となった。1957年に名誉回復されている

マルキアン・ポポフ 上級大将

独ソ戦開戦時のレニングラード戦線司令官

両司令官職後も各戦線の司令官としてモスクワ攻防戦やスターリングラード攻防戦に参加

ウクライナ方面の諸都市の解放作戦で活躍した

フォードル・クズネツォフ 大将

独ソ戦開戦時の北西戦線司令官。ドイツ軍の奇襲により防衛計画の準備が遅れていた北西戦線軍は大損害を被る。これをうけ麾下部隊の後退命令を出すがこのことで司令官を罷免

以後も軍司令官や戦線副司令官職を歴任するが目立った活躍はなかった

イワン・チュレネフ 上級大将

独ソ戦開戦時の南部戦線司令官。南部戦線は他戦線に比べ後退はしつつも独軍に一定程度の打撃を与えることには成功していた。南部戦線司令官後も第28予備軍司令官やザカフカーズ戦線司令官など南部での軍司令官職を歴任した

 

ミハイル・ルポノス 大将

冬戦争では第70狙撃兵師団を指揮し活躍した

独ソ戦開戦時の南西戦線司令官であったが89月の間に南西戦線軍453千はキエフでドイツ軍に包囲された。9/17に戦線の撤退が決定されたが時すでに遅く戦線は大損害を出し崩壊、キルポノスもこの時戦死したと伝わるが別説では自殺とも言われている

アレクサンドル・ノヴィコフ 空軍総元帥

赤軍空軍の総司令官

冬戦争時は北西戦線空軍参謀長、独ソ戦開戦は北部戦線及びレニングラード戦線の空軍の主力軍の司令官後に最高司令部の空軍代表として赤軍の全作戦に伴う航空作戦の指揮をとった

アレクセイ・アントーノフ 上級大将

ヴァシレフスキー参謀総長のもと参謀次長/作戦局長として補佐をした

彼の役割はスターリンに軍事状況を報告することであった。ヴァシレフスキーの極東ソ連軍総司令官時には参謀総長に就任 ヤルタ会議では独交通網への爆撃プランを米英に提示

これがドレスデン空襲のきっかけとなった。

戦線級以上の軍司令官にのみ授与された「勝利勲章」を唯一参謀職のみの軍歴で受賞した

ヴァシーリ・グラズノフ 中将

独ソ戦開戦時第3空挺軍団長としてキエフ防衛戦に参加。その後ソ連空挺軍初代司令官に就任し全空挺部隊の指揮をとる。1943年より第4親衛狙撃軍団長としてドニエプル渡河やオデッサ解放・ベルリンの戦いに参加し活躍した

ニコライ・ヴォロノフ 砲兵総元帥

ソ連砲兵の権威

戦前より砲兵部長として赤軍砲兵部隊のドクトリン・訓練・組織編成の改革に着手

独ソ戦では赤軍砲兵司令官として師団級や軍団級の大砲兵部隊の編制・運用を行い、対戦車戦や対砲兵戦闘の運用方法を確立させた。彼の育て上げたソ連砲兵戦力は赤軍の最大の特徴にして最強である要因としてその力を発揮した

ミトロファン・ニェジェーリン 砲兵総元帥

戦前より砲兵運用に携わり、独ソ戦では軍砲兵司令官や砲兵軍団長として活躍

戦後、ソ連戦略ロケット軍初代総司令官に就任しICBMの開発・運用を指揮した

1960年、バイコヌール宇宙基地でのロケット実験の視察中にロケットが爆発、彼を含む90名以上が死亡する大事故通称「ニェジェーリンの大参事」が発生。実験が国家機密であったために彼の死は1990年の情報公開まで飛行機事故によるものとされていた

ニコライ・クズネツォフ ソ連邦海軍元帥

戦前より巡洋艦艦長や太平洋艦隊司令官を歴任、独ソ戦開戦直前より海軍人民委員(海軍大臣)独ソ戦開戦前夜、陸軍は「ドイツへの挑発行動の禁止」という命令により一切の防衛体制をとれていなかったのに対し、海軍は別の指揮系統の為にクズネツォフはソ連中央(スターリン)の意向に反し、6/22の夜明け時点で全艦隊及び海軍航空隊に戦闘準備命令を発令

そしてまさにこの日夜明けより独軍によるバルバロッサ作戦が開始されたのである。

つまりこの時クズネツォフ率いる赤色海軍は全軍における唯一の全軍規模での反撃が可能な軍種であったのでありその証拠にこの最初の奇襲で一隻の艦も失うことなく反撃を行えた。開戦後は主に黒海方面の海軍戦力を指揮しドイツ軍の侵攻を阻止した。

イワン・イサコフ ソ連邦海軍元帥

革命前より海軍軍人として艦隊勤務についていた軍人。冬戦争における海軍戦力の指揮

独ソ戦では最初期にソ連赤旗北方艦隊司令官を、その後は北カフカース戦線の海軍司令官に就任しバク―油田への侵攻を目指すドイツ軍を相手に奮戦した。

この際空襲による負傷でイサコフは足を切断している。戦後ソ連海軍最高位階級のソ連邦海軍元帥が創設されるとクズネツォフと共に任命された

パーヴェル・アルテミエフ 大将

戦前は内務人民委員部(NKVD)独立師団長やNKVD作戦軍局長職を歴任

独ソ戦時に首都であるモスクワ軍管区司令官となり更にモスクワ防衛地区長も兼任

強制労働を含む大規模かつ急ピッチの整備で防衛線を構築した

戦後もスターリン死後までモスクワ軍管区司令官職にあった

 

エフィム・シチャデンコ 大将

政治将校

大粛清期、労農赤軍指揮要員局長として多くの赤軍将校の逮捕状を交付した

独ソ戦開戦後は副国防人民委員と部隊編成・充足総局長として軍政面から関与した

ゲオルギー・ジレンコフ 中将

政治将校

旅団付政治委員だった際にヴァジマ包囲戦で捕虜となり、ドイツ軍に協力

中将の階級でロシア解放軍に参加した。戦後米軍の捕虜となるがソ連に送還、絞首刑となる

アレクセイ・エリョーメンコ 下級政治委員

ソ連における最も有名な戦時プロパガンダ写真の被写体となった人物

18軍隷下第4狙撃兵師団第220狙撃兵連隊の下級政治委員だった

1942年夏、負傷した中隊長に代わり中隊の指揮をとりその最中戦死した

この写真により無名だった彼の勇姿はソ連人民の不屈の闘志の象徴として伝説化した

イヴァーン・コジェドゥーブ 航空元帥

赤色空軍最多撃墜数62機の撃墜を達成したエースパイロット。主にLa-5系戦闘機を使用

戦後は精鋭部隊第324戦闘飛行師団を指揮し朝鮮戦争で国連軍と交戦した

アレクサンドル・ポクルィシュキン 航空元帥

赤色空軍第2位の撃墜数59機のエースパイロット Mig-3P-39Nを使用

戦後は祖国防空軍副総司令官などの空軍の要職を歴任

さらにソ連最高権力機関であるソビエト連邦最高会議の常設機関最高会議幹部会議員にまで就任した。古今東西のエースパイロットで最も出世をした人物である

 

サーニャ・V・リトヴャク 中尉 ストライクウィッチーズより

本名 アレクサンドラ・ウラジミーロヴナ・リトヴャク

501統合戦闘航空団「ストライクウィッチーズ」所属の唯一のナイトウィッチ(夜間戦闘任務専門)使用武器は「フリーガ ハマー」と呼ばれる無誘導ロケット弾、固有魔法は電波を発信・感知することで周辺状況の把握をする「全方位広域探査」

性格は物静かで人前に立つのが苦手な照れ屋。エイラとはとても仲が良く同じナイト・ウィッチということでぼば軍のハイデマリーとも交友関係がある

バラライカ 旧ソビエト空挺軍 大尉 BLACK LAGOONより

ロシアマフィア「ホテルモスクワ」の東南アジア ロアナプラ支部を仕切っている女性

本名はソーフィヤ・イリーノスカヤ・パブロヴナ、子飼いの部下からは「大尉(カピターン)」と呼ばれている女傑

かつてソビエト空挺軍の大尉としてアフガン紛争に従軍、顔の火傷はその時の戦傷である

軍時代からの子飼いの部下によって構成された「遊撃隊(ヴィソトニキ)」を率いる作中勢力屈指の組織力・火力を誇る、作中人物曰く「地上で最もおっかない上位3人の女」の一人

ボリス  旧ソビエト空挺軍 軍曹 BLACK LAGOONより

軍在籍時代よりバラライカの副官を務めてきた実直な男性。常に無表情で寡黙にバラライカの命令を実行するが性格はいたって温厚。

イワン・ドラゴ ロッキー4より

ソビエト連邦のアマチュアボクシング・ヘビー級チャンピオン

ソ連の誇る最新鋭技術によるトレーニングによって得た赤き超人

アメリカ・ラスベガスでの対アポロ戦ではロッキーの盟友アポロを死に追いやるほどの圧倒的パワーを見せ、モスクワでの対ロッキー戦でも序盤は圧倒する。しかし不屈の闘志で立ち上がるロッキーと15ラウンドにも亘る戦いの末リングに沈んだ

ザンギエフ ストリートファイターUより

ソビエト連邦出身の鍛え上げられた筋肉を持つ巨漢プロレスラー。二つ名は「赤いサイクロン」闇プロレス界で無敵を誇っていたがソ連の「偉大な指導者」から直々にレスリングによる国際交流に努めてほしいと頼まれ祖国の為に戦う英雄。相手に背を向けることをよしとせず体中に傷跡があるが背中には指導者を身を挺して庇った時の傷が1つあるのみである

ヴィクトル・レズノフ CODWAWより

1913420日生まれ出身はサンクトペテルブルク

赤軍に入隊、ドイツ軍と交戦。スターリングラードで自身の所属する部隊が絶滅するなか奇跡的に生き残りゲーム主人公と共に戦場を戦いぬいた。

スターリングラードからオーデル攻勢、ベルリン攻防戦をへてライヒスタークに赤旗を打ちたてたソ連軍の英雄。敵に対して言うことやること尽く過激、しかし戦友への友情に厚い漢

 

 

 

 

カチューシャ

プラウダ高校戦車道チーム隊長 搭乗車はT-34-85 好きな戦車はKV-2

高校3年生 身長127cm 「地吹雪のカチューシャ」

前回戦車道全国大会決勝で彼女の立案した作戦によりプラウダは黒森峰女学院の10連覇を阻止し優勝。その功績から今年度より隊長となった。

言動はなかなかの暴君ぶりだが作戦能力は非常に高く隊員からの信頼も厚い 

ちなみに日本人、出身北海道綱走市

ノンナ

プラウダ高校戦車道チーム副隊長 搭乗車はT-34-85IS-2 好きな戦車はSU-100

高校3年生 身長176cm 「ブリザードのノンナ」

彼女も北海道綱走市出身の日本人のはず、だが流暢なロシア語を話せる、歌う

性格はクール。副隊長としてカチューシャを多方面で補佐する。射撃能力が尋常ではないほど高く、全国大会準決勝の対大洗戦では日没後雪中のIS-2で行進間射撃を行い敵戦車に命中させるという活躍を見せた。この試合における大洗側の撃破車両は全て彼女の射撃によるものである。

 

クラ―ラ 

プラウダ高校戦車道チームの隊員T-34-85車長

彼女にいたっては間違いなくロシア人であり普段はロシア語でノンナと会話している

この事をカチューシャに叱られるが実は日本語をとても流暢に喋れる

カチューシャ隊長への信頼は非常に高い






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